8月15日(5日目)
8:00AMにホテルを出発して、ビクトリアフォールズに向かった。ここではイギリスのテロ事件の影響で通関手続きが厳しくなっており、おみやげをたくさん持参した私は1つ1つ調べられたため大変な目にあった。11:50AMビクトリアフォールズを発って、1時間45分でヨハネスブルグに到着した。
この日は旅の中日に当たり、ゆっくり休養することにした。ただエネルギーを余す私を含める数人は現地のガイドさんにお願いして地元のショッピングセンターに連れて行ってもらった。約2時間ゆっくり買い物を楽しんだ私はガイドさんに更に頼み込んで、ヨハネスブルグにあるカイロプラクティック学部が存在するウィットウォーターランド・ヨハネスブルグ大学に連れていってもらおうと考えたが、それはあまりにも危険だということで学校の情況報告と写真、パンフレット送付をお願いするにとどめた。ホテルに戻った後、近くの和食専門店で久々に刺身、天ぷら、日本酒など和食を堪能した。
翌日(6日目)
ヨハネスブルグと首都プレトリアを見学した。ヨハネスブルグはアフリカ最大の都市で、ハウテン州にあり、ジョーバーグ、ジョーズィ、エゴリなどいくつかの異名があるとおり、様々な異文化が融合する都市である。このうちのジョーバーグはヨハネスブルグの英語読みである。1886年この地で金が発見され、一攫千金を狙った移民が押し寄せ、アフリカ最大の都市となった。そして金鉱とダイヤモンドの国として世界経済に躍り出た。急激な人口増加のため治安が悪化し「世界で最も危険な都市」として名を馳せた。不法移民が多く入り込み、職もなく、犯罪が多発する傾向からこの不名誉な名をつけられたのだ。
午前中はゴールドリーフシティを見学した。ただし我々が一番乗りだったため、入場口で待たされる羽目になった。そのときの気温はなんと3℃。通常アフリカといえば暑い国というイメージであったが、冬ともなればこの地では寒くなるということを痛感した。ただし朝は寒いが日中は25℃にまで上昇し、夕方から再び極端に寒くなる特長があるようだ。もちろん最も暑い時期には47℃にまで気温は上昇し、一年を通して平均気温は23℃前後で日本と同じく南アフリカにも四季があるらしい。
次にプレトリアに向かった。プレトリアは各国の大使館が集まり、南アフリカの行政府のある政治の中心となる都市で、人口は145万人に上る。
まずアフリカーナの血と涙の歴史を物語る開拓者記念堂を訪ねた。ここには、アフリカーンスで書かれた「我が命は南アフリカのためにあり」という碑文があり、そこには毎年12月16日の正午に天井から日の光がさすように設計されている。これはアパルトヘイトからその廃止までのストーリーをプレートにして壁いっぱいに設置したものだ。まさに南アフリカの歴史そのものを見た思いがした。
次にアパルトヘイト廃止後、黒人の英雄ネルソン・マンデラ氏が大統領選に出馬した際、第一声をあげた地ユニオンビルを見た。そこから眺めるプレトリアの街並は絶景と言うしかなかった。ここに春になると咲く、7万本を越えるジャカランダ(紫の花)の街路樹は格別なものであるようだ。
夕方便でヨハネスブルグより、旅の最大の目的地ケープタウンに向かった。ケープタウンには7日目と8日目、9日目の2日半滞在した。ケープタウンは我々外国人にとっては一番印象深い都市でありバスコダガマが発見したケープ半島(喜望峰)が有名であり、立法府のある首都でもある。南アフリカを訪れる人々が自然のアフリカから超近代都市へタイムスリップしたかのように錯覚させられるほどの落差を感じる。
ここではテーブルマウンテン、オーストリッチ牧場、ステレンボッシュのワイナリー、シールアイランド(オットセイの島)、ボルダービーチ(ペンギンのいる海岸)を訪れた。
空港から高速道路をバスで市内に向かう途中、右手に林立する近代的高層ビルと豪邸、左手に広がる黒人区域のバラック街を見た。これほど貧富の格差ある光景はおそらく世界でも類を見ないものであろうと同行する我々11人一同感じた。
ケープタウンで見た人種、民族の違いからなる対立と貧富の差は我々の想像を絶するものであった。高速道路の左側に位置するソウェイトは南アフリカ最大の黒人移住区であり、富裕層はわずか2割で残りの多くの黒人たちは貧困に苦しみ、犯罪も後を絶たない。白人の1ヶ月の平均生活費が40万円であるのに対して、黒人のそれは都市部で年間約10万円、地方では年間平均4万円である。教育はおろか医療さえ充分に受けられない生活を私は目の当たりにした。
ケープタウンで泊まったアラベラ・シェラトン・グランドホテルは五つ星のホテルで、チェックインの際宿泊客にはカードが渡され、エレベータに乗る時、降りてガラスのゲートを開ける時、入室の時、また室内でテレビ、冷蔵庫を使用する時もカード使用が必要である。ケープタウンがいかに危険な都市であるかを象徴するセキュリティシステムではあったが、そのために私は何度も集合時間に遅れてガイドさんを困らせてしまった。しかしアフリカの地にこのような他に類を見ない素晴しいホテルがあることはかなり印象的であった。
ウォーターフロントを訪れた際驚いたのは、そこにいた人々のほとんどが白人で黒人の姿を見ることはなかった点だ。ここだけは南アフリカでも例外的に安全地域であるようだ。
8日目午前中に行った喜望峰のアグラス岬は、太平洋とインド洋を分ける風光明媚な場所で、かつて「嵐の岬」と呼ばれるほど強風が吹き荒れることでも知られている。私が訪れた時もその名のごとく大雨に見舞われ、残念ながらその景観をまったく見ることができなかった。しかし、どうしてもアフリカ大陸最南端ケープポイントだけはという願いはかない、写真に収めることができた。
以前、南アフリカの映画「遠い夜明け」という作品を見たことがある。その映画は南アフリカの黒人の地位向上にかけたスティーブ・ビコと白人ジャーナリスト、ドナルド・ウッズの友情を描いたもので、アパルトヘイト反対を叫んだビコが当時の政府によりリンチを受け拘置中に命を落としたという物語だ。その後、1991年にはアパルトヘイトが撤廃され、ネルソン・マンデラを筆頭に黒人地位向上が実現した。しかし今回南アフリカを実際に訪れて、未だ黒人に対する白人の考え方はあまり向上しておらず差別主義は変わらず横行していると私は感じた。とは言っても概して今回は以前から訪れてみたかった「南アフリカの旅」だった。
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