<第6日目>
朝6時30分に起床して、朝食を済ませて最終目的地であるドブロブニクに向けてホテルを8時に出発した。昨日と同様に到着するまで、約4時間を有するということなので、ゆっくり睡眠をとろうと考えていたが、途中海岸線を通ったので、眺める景色は私がよく行く伊豆半島とは比べようのない程美しく、さすがアドリア海だなぁ〜と思わせた。
長い車の乗車で疲れ果てたところで、急遽クロアチアの国境を通過して直ぐボスニア・ヘルツェゴヴェィナの国境があり驚いた。そしてさらにしばらく走ってクロアチアの国境を通過することになった。その途中ボスニアで車を降り休憩することになった。(写真2ボスニア人と記念撮影)なぜドブロブニク直前になってボスニア・ヘルツェゴヴェィナ領に入ったのか、それは「300年程前、この地域はネウムという海に面した町があった。(写真3国境の暖衝地帯)その時ドブロブニクの領土であったがベネチアやトルコとの紛争でネウムは緩衝地帯でオスマン帝国領となった。この時9kmという狭い土地が海岸線まで引かれ国境線となった」と現地の人が語ってくれた。ともかくかボスニアに入国できて何だか得した気がした。
なんだかんだで目的地に無事着いた。ドブロブニクは昔から「アドリア海の真珠」と例えられ、この地を訪れる旅行者を魅了し続けているようだ。早速城壁の中に入った。今までトロギールやスプリットの城壁の旧市街を見てきたが、このドブロブニクは何か違っているような気がした。それは現在でも中世の都市が完全に保存されてせいかもしれない。西のピレ門から入って旧市街のフラッツァ通りを通ってオノフリオ大噴水、フランシスコ会修道院、セルビア教会を見学してルジャ広場に出た。
その広場の左にスポンザ宮殿、右に聖ヴラボ教会、旧総督邸があり奥には聖母被昇天大聖堂が見えていた。ともかく一通り見学してから、15〜16世紀に海運交易都市として栄えたといわれる古港に出た。
北は聖ルカ要塞、南は聖イヴァン要塞に挟まれた港は敵が侵入しても防衛出来るように造られているのにはちょっと驚いた。通常は城壁を一周するが、我々は旧市街全体を一望したい一心から標高412mのスルジ山の山頂まで行くロープウェイを利用することにした。山頂にはナポレオンから贈られた大きな十字架が旧市街を見下ろすように建てられていた。ここから観るアドリア海と旧市街全域の眺めはやはり絶景であった。なぜこのドブロブ二クが世界遺産の中でもこれほど注目されているのがよく分かった。
ドブロブスクの歴史について簡単に触れると、614年にこの都市が誕生し、当時西ローマ帝国が崩壊したことで、スラブ人やアヴァール人など異民族が旧帝国領に流入して来たため、その襲撃を逃れようとツァヴタトに住んでいた人々が移り住んで来たのが始まりのようである。スラブ語ではドブロブスクという名では有るが、ラテン語ではラグーサという。よって当時はラグーサ共和国と言われていた。ローマ人の末裔の避難所であったラグーサだが、一部スラブ人がここに住んだため、旧市街は二分され北側はスラブ人、南側はローマ人末裔が住むことになった。二つの地区の間には水路が引かれ共用していた。その後、水路が閉じられ、現在は街を貫くメインストリート(ブラッァ通り)となっている。
クロアチアはネクタイの発祥の地といわれ、フランスのルイ14世はファッションに敏感な人といわれ、クロアチアの兵士が軍装にスカーフを使ったのをみて、自分もファッションの一つとして取り入れたのが始まりだといわれといる。ヨーロッパではネクタイは「Cravat・クラヴァト」と呼ばれ、クロアチア人が最初に着けたので「クロアト」として今日まで残っている。特にドブロブニクのネクタイやスカーフは最高級品として重珍されている。私もスカーフを何枚かお土産に買った。最後の夕食はクロアチアの名物料理を食べて1週間の疲れを取った。
<第7.8日目>
帰国の便が早かったため朝5時半に起床して、ドブロブニク空港に向かった。朝9時頃空港を発って、途中フランクフルト空港を経由して成田に帰国した。フランクフルトとから成田間は今話題のエアバスであった。やはり最新の飛行機の旅は素晴らしかった。
スロベニアはEUの中でも大気汚染を最大の環境問題として騒がれていたが実際に訪れてみて、私が感じるにはそんなに問題視するほどのものではないように感じた。 産業も工業が発達しており線維産業、金属化工業が充実しており、農業の穀物の栽培(トウモロコシ、小麦)と商品作物の生産にバランスが取れているようだ。また、スロベニア人はドイツ圏の影響を受けているせいか勤勉で秩序を重んじる人が多いようだ。それと旧ユーゴスラビア共和国の中でも最も経済的に豊かな先進地域であった。それに比べクロアチアはのセルビア人が多い為、紛争が長かったせいか経済も産業も立ち遅れ、今だEUに加盟しておらずスロベニアに比べて一歩遅れている感があった。
産業は造船、化学業、石油、食品加工業、それに林業及び農業(小麦、オリーブ、いちぢく)中心でその他観光業が国を支えているようだ。性格はスロベニア人に比べ気性が激しくあまりフレンドリィーに感じなかった。おそらく長い間の内戦で不安定が続いたせいではないかと思う。ただ両国とも温暖湿潤気候と西岸海洋性気候のせいか、ワイン特に赤ワインが美味しく、ついつい各地で飲み過ぎてしまった。ボスニア・ヘルツェゴヒナについては数時間の滞在だったので十分に知ることができなかった。
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