ヒポクラテスは紀元前460年、ギリシャのコス島に生まれ、父はヘラクレイトス、祖父は初代ヒポクラテスで、彼は2代目ヒポクラテスになる。
アポロンの子で医術の神アスクレピオス派に属し、イオニアの自然医学を背景にして病気は自然の経過と考え、医術はこれを助ける技術であると考えた。つまり、人の身体に備わる自然の力と身体の環境との関わりを重要視した。
ヒポクラテスは深い洞察力と観察の目を持ち、思慮深く自分の人望に奢ることなく健全な医療を実践した、徳の高い偉人であったといわれている。よって後世に「医聖」「医学の父」と崇拝されたのである。
彼には2人の息子、テッサロスとドラコン、そしてひとりの娘がいた。2人の息子は医者として活躍し、長女の婿ポリュボスは医学者として優れ、『ヒポクラテス全集』70篇の編集に深く関わった。
ヒポクラテスは朝になると弟子をお供に患者の隣に腰をおろして話しかけ、目、皮膚、耳、呼吸などの生理機能を観察し、眠り具合やどんな夢を見たかを聞いたりして診断をし、それを通じて医学の実地教育と治療の基礎にした。これが後のクリニックの由来である。
ヒポクラテスの性格は非常に温厚で哲学的思想を持ち、病気よりも病人の現状を全体としてとらえ、これからの経過を正しく予知したと言われている。
彼は両親の死後コス島を離れ、各地を巡回し医療活動に命をささげた。特にペロポネソス戦争の時に、アテナイをはじめとする諸都市を疫病から救い、アテナイの市民権を与えられた。そして彼は、紀元前370年、テッサリア地方のラリッサで没したといわれている。
ヒポクラテス医学の概念
ヒポクラテスの偉大さは、健康と病気を自然の現象として科学的にとらえ、呪術や魔術から引き離して「自然科学」としたことである。また、病気は一種ではなく、いろいろな種類があることを説き、我々の身体にはもともと健康になろうとするPhysis(自然の力)があり、医者はそれを助けるのが責務であるとした。
ヒポクラテスを最も有名にしたものに「四大体液説」がある。この説は、病気は身体を作る成分、すなわち体液の乱れからおこるものとした。発熱や化膿といった症状は、身体が体液の乱れを正常化しようとする働きのあらわれである。つまり、身体の構成要素と自然界の不調和が病気の発症であるとした考え方である。
体液説の起源はインドのアーユルベーダの三液説に第四の要素として自然が加えられて四大体液説になったといわれている。また、四体液とはイオニア学派のエンペドクレスの四元素説から進化してつくられたものであり、この四大体液説は人間の性格型の精神医学や、血液型の占い、音楽療法等にも多大な影響を与えたと見られている。
ヒポクラテス医学は、診断の語句を持たない「病名の無い医学」であり、病気の経過を知って予後を決めるものである。また、人間の身体の調和を回復させるため、食事療法や環境を重要視した。
ヒポクラテスの功績
『ヒポクラテス全集』は各国の言葉に翻訳され、どの国でも分かりやすく学ぶことができ、四大体液説を筆頭に、傷病の予知予防といった保健術がつくられた。そして西洋医学のみならず自然医学の分野にも絶大なる影響を与えている。また、各国の大学の医学部のシンボルとして崇拝され、特に医師としての職業倫理を謳った「ヒポクラテスの誓い」は有名であり、その他、患者の治療指針として「箴言(しんげん)」や「警句集」などが、今日でも活用されている。
また、ヒポクラテス医学は、自然医療カイロプラクティックにも大いに影響を与え、哲学や思想のみならず、医療の倫理観にも関わり、今日のカイロプラクティックの向上・発展に貢献している。
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