世界最初の手技による骨矯正
正統派医学と称するアロパシー医学がホメオパシーと長年医学闘争をくり返していた時、突如進出してきたのがオステオパシー(1874年)とカイロプラクティック(1895年)であった。当初は、これら非正統的医学はアメリカ国民にかならずしも受け入れてもらえなかったが、徐々に信頼を得て、代替医学として今日の地位を築いていったのである。正統派医師との長い裁判闘争から一つひとつ法律的かつ教育的問題を解決していくことによって、世論にいつのまにか支えられめざましい成長を遂げていったのである。我々カイロプラクターは、これら完成された医療を受け継ぐだけでなく、先人たちがどのようにして歴史的背景のもとに今日の代替医学を創り上げていったかを知るべきである。そこで筆者自身が携わっているカイロプラクティックの歴史について記述してみることにする。
カイロプラクティックの発祥は、1895年にダニエル・デーヴィット・パーマー(Daniel David Palmer)によって創始された。しかし歴史をたどってみると、古代エジプト時代に「医学の父」および「医学の始祖」とよばれたヒポクラテス(Hippocrates)がすでに「病気は超自然の力によってではなく自然の力によって生じる」と唱えた。「自然が病を癒す、つまり人体に生まれつき備わっている仕組みが崩れ、また自動的に自然の力で回復しようと働く」。この“自然治癒力”を大いに強調した。これをもとに、ヒポクラテスの教え子であったゲーレン(Galen)がローマにおいて右腕のしびれがひどい患者の治療に当り、その患者が頚椎の神経によって指が刺激を受けしびれていることに気づきその場所をみつけ、頚椎のアジャストを行った。これが世界最初の手技による骨矯正であったといわれている。
カイロプラクティックの誕生
そして歴史がずっとあとになって(1895年)、先述したD.D.パーマーによって科学的に証明されていった。D.D.パーマーは1845年、カナダのオンタリオ州で生まれ、20歳の時にアメリカ合衆国へ新天地を求め移住して来た。バッファロ、デトロイト、シカゴと渡り歩き、そしてアイオワ州のダベンポート(Davenport)に着いた。一家で居を定めて食料雑貨商を営んでいたが、D.D.パーマーはひとりダベンポートからイリノイ州のニューボストンという所に移り、蜂蜜などの健康食品を製造して生計をたてていた。その後、アイオワ州のワット・チアー(What Cheer)に再度移り住んで結婚して、3人の子供(2女、1男)が生まれた。そのうちの男子がのちのバートレット・ジョシュア・パーマー(Bartlett
Joshua palmer)であった。
1885年、再度ダベンポートに移り住んで、翌年から磁気治療師のポール・カスター(Paul
Caster)に磁気療法を習って患者を治療するようになり、やがて磁気治療所なるものを開設していった。このころD.D.パーマーは病人を治すのが天職であると悟り、病気の背後には共通する原因があるという考え方に没頭し、それを研究し続けた。
1895年9月のある日、彼は治療所で治療していた時、治療所の入っているビルの黒人雑役夫ハービー・リラード(Harvcy Lillard)が窮屈な姿勢で身をかがめて仕事しているのをみて疑問を感じ、早速彼に身体の状況を話して治療ベットにうつぶせに寝かせ脊柱を調べることにした。触診の結果、大きな隆起が脊柱の上部にあることに気づき、これが17年間も耳を聞こえなくしていた原因であると思った。そして、一つの大きな隆起を思いきり押してみたところ、大きな音とともに椎骨が動いた。椎骨がもとの位置までもどると、耳はまたたくまに以前と同じように聞こえるようになった。彼に治療の承諾を得るのに、なんと30分要したといわれた。カイロプラクティックの歴史的出来事である。これをきっかけに、さらに二つ目の症例である心臓病に冒されている人を同じ方法で脊柱の変位した部位に押圧を加えてみたところ、心臓病がうそのように良くなっていった。
これらの症例に自信をもったD.D.パーマーは「あらゆる病気の95%は脊柱の椎骨のずれが原因である」と信じて疑わなかった。そして、この出来事を磁気治療の患者の一人であったウィード嬢の父サムエル・ウィード(Samuel
Weed-長老教会牧師、ギリシャ語文学者)に詳しく説明した。そしてこの素晴らしい発見に名前をつけようということになり、牧師は「手で行う」ということからギリシャ語の語源をとって、「カイロプラクティック」と命名した。
飛躍発展へと導いたB.J.パーマー
そののちD.D.パーマーは、最初のカイロプラクティックスクールをダベンポートに開設した。当時の教育は、数ヶ月で解剖・生理学などを中心に教える程度のものであった。特にテクニックといえば、ほとんど押すだけの簡単なものであった。しかし年々生徒は徐々に増加していき、その中にはD.D.パーマーが最も大事にした生徒B.J.パーマーが学んでいた。1903年、D.
D.パーマーと息子のB.J.パーマーが無免許(医師法違反)診療のかどで逮捕されることになった。D.D.パーマーが先に裁判を受け(105日間)刑務所に送られたが、B.J.パーマーはなんと公判にも姿を現さなかったという。この事件がのちの父子の運命を変えることになっていった。父が刑期を終えて学校に帰って来た時は、ほとんどの学生がB.J.パーマーのもとに移ったために、やむを得ず息子に学校と事業の権利を売り渡し、その年にオレゴン州のポートランドに1人渡り、ポートランド・カイロプラクティックカレッジ(Portland Chiropractic
College)を開設した。その後、全米のあちこちを放浪し、1913年8月にD.D.パーマーは68歳でこの世を去った。
父D.D.パーマーと息子B.J.パーマーは、カイロプラクティックに対してまったく反対に意見をもっていたために、しばしば対立し、D.D.パーマーはB.J.パーマーが自分の葬儀に参列することは許さないという遺言を残したといわれる。これほど父子に確執がみられたのも、お互いのカイロプラクティックへの愛着心があったればこそである。D.D.パーマーの死後、B.J.パーマーはPalmer School of
Chiropracticを設立し、アイオワ州より学校法人を受けて教育をさらに高めていった。まず、カイロプラクティックを広範囲に広めるため、WHC(Wonaer’s
of Health)というラジオ局を作って大々的に宣伝し、またビジネス心理学を用いたりレントゲンを導入してより科学的なものにしていった。
B.J.パーマーの教義は「カイロプラクティックの原理は、あらゆる病気の原因を椎骨の関節間の変位に求めることであり、椎骨を矯正してあらゆる病気を治す」というもであったが、この教義を不服とするカイロプラクターも多く出てきた。その1人にオクラホマシティの弁護士ウィラード・カーヴァー(Willard
Caver)がいた。カーヴァーは、B.J.がパーマースクールを開校してから数年後にオクラホマシティにカーヴァー・デニーカイロプラクティックカレッジ(Carver・Denny
Chiropractic College)を開き、脊柱の矯正以外にも栄養学的療法や物理療法などを取り入れて実行に移した。この彼の主張が、のちにカイロプラクティックを二分することになる。パーマー中心の純正派と、カーヴァーをリーダーとする混合派に分かれることにより、両派はそれぞれ別々の学校や協会を設立していった。
法制化とともに市民権を獲得
B.J.パーマーはもって生まれた押しの強さで、自ら宣伝マンとなってカイロプラクティック界の利益のために日夜働いた。その一つとして他の代替医学ができなかった合法化を、巧妙な圧力ではね返していち早く勝ちとり、カイロプラクティックと自分たちの地位を確立していった。やがてカイロプラクティック業界は州議会に多大な影響力を持つようになり、1913年にはキャンサス州においてアメリカ最初のカイロプラクティックの法律が通った。そして1925年には48州のうち32州に認可され、現在では50州すべてに認可されている。1925年頃には、X線などの医療手段の使用権をめぐって裁判が行われ、多くの特権を獲得していった。今日では、大幅な診療の自由と権限が与えられ、各種保険の取り扱いも可能となり診療報酬の払い戻しも受けることができるようになった。アメリカ国民も正統医学アロパシーと同じ科学的基礎に立脚した真の振替医学だと、自然に考えるようになってきた。
B.J.パーマーは、1961年に没するまで世界中を講演して回り、カイロプラクティックを一大組織として築きあげていった。B.J.パーマーがカイロプラクティックの大功労者としてあがめられた陰に、彼の妻メイブル夫人(Mabel
Heata Palmer)がいる。1904年にB.J.パーマーと結婚し、自らパーマー・スクールに入学、卒業し、1905年にはシカゴのラッシュ医学校(Rush medical
College)で解剖学を学び、1910年にはパーマースクールに戻って解剖学を教えた。そしてさらにB.J.パーマーの研究の手助けのために全力を注いだのである。
一方、B.J.パーマーが1902年にパーマー大学を卒業する以前に15名の卒業者がすでにいた。その中の4人は新しい学校を設立し、さらに1905年、このメンバーのソロン.ラング.ウォーティー(Solon.M.Llangworty)とオークリ.ジ.スミス(Oakley.G.Smith)の2人は、アメリカンスクール・オブ・カイロプラクティック(American School of Chiropractic)を開校した。その後、B.J.パーマーの考えに賛同しないジョーカ・ハワード(Joka
Howard)らによって通信教育も始められたがうまくいかず、数人の医師たちによって引き継がれ、次いでウイリアム・スコールツ(Williams Scaultze) M.D. D.C. を筆頭にするグループは、1918年にシカゴの学校を開設した。それが現在のナショナル・カレッジ・オブ・カイロプラクティック(National College of Chiropractic)の前身である。
B.J.パーマーが1961年に没すると、息子のデーヴィット・ダニエルパーマー(David
Daniel Palmer)がパーマースクールを引き継ぎ、専門学校から大学教育に切り替え、名称もパーマー・カレッジ・オブ・カイロプラクティック(palmer
Collage of Chiropractic)と改名し、図書館からB.J.パーマーの著作物を排斥し、さらに壁からはスローガンをも一掃してカイロプラクティックのイメージを一変させ、信頼の置けるカイロプラクティックの教育に取り組んだ。まずその一環として大学内に短期大学を併設し、今までの高校程度の教育水準だったものをさらに2年間の一般教養を義務づけてからカイロプラクティック大学へ入学させるようなシステムを確立した。また宣伝もラジオからテレビの分野に変え、アイオワやカリフォルニア、ミネソタなどにTVステーション(WOC=Wonderful
Of Chiropractic)を開局し、大々的にカイロプラクティックの普及に努めた。そのころ正統派医学は、国民から高い信用を得てはいたが、医学に頼りきった治療法に限界を感じて振替医学に走る患者が多く出てくることを、まったく予測していなかった。
新しい時代を開く核「WFC」
今日のカイロプラクターはI.C.A(International Chiropractic
Association)とA.C.A(American Chiropractic Association)に分かれ、前者はパーマー大学を中心とした純正派で、後者はナショナル大学、ロスアンゼルス大学主体の混合派である。アメリカのみならず世界のカイロプラクターの大半は混合派であり、温冷罨法を主体とした物理療法、食事療法、栄養療法など手技以外の万法をも取り入れて治療を行っているのが現状である。しかし、世界の流れというか世の中の流れは速く、「純正派」や「混合派」を超越した組織として、世界カイロプラクティック連合(WFC=World
Federation of Chiropractic)が結成され、加盟国も60か国を数えるにいたった。まさに、これからの時代には我々カイロプラクターが必要不可欠になってくるのではないだろうか。
カイロプラクティックの歴史は、父子の確執や大学教育の考え方、理論の相違から始まった。学校開設の速立、そしてアロパシー医学との医学および法律闘争に至るまで、さまざまな過程を経て、今日のカイロプラクティックが作られてきた。特に世界のカイロプラクターを一本化したWFCの存在は、大きなものと言わざるをえない。患者の肌に直接触れることが医療者に対する信頼感を高めることにも通じる。その点、カイロプラクティックもオステオパシーも、血液の循環を改善し、病理部位に健全な神経エネルギーを送り込むことに役立つのである。世界の医療専門家も「カイロプラクターが心身の健康全般に関わる脊椎の重要性を強調することは正しいし、その手技を中心とした治療法は大きな価値をもっている」と論じている。
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